わたしは、人間の持つ本能だと思う。
海上保安庁にいたころ、土砂崩れの現場を中継しているテレビニュースを見た。
その土砂崩れは、人家を直撃してたくさんの方が生き埋めになった災害。
一旦は収まり消防が救助作業を始めたものの、再び土砂崩れが…
使命感
2度目の土砂崩れに巻き込まれた消防署員が、救助されて病院のベッドの上でインタビューを受けていた。
彼の言葉に胸が熱くなった。
「わたしが現場へ行ったときは、生きていたんです。もう少しで、助けることができたんです。もう少しで手が届いたんです」
自分が生き残ったことを喜ぶどころか、救助できなかった悔しさでいっぱいの様子だった。
同じく人命救助に当たる者として、彼の気持ちが痛いほど理解できた。
海難救助に赴いても、運良く助かるのは珍しい。
人が普段住むことのない海上では、遭難自体の認知が遅れるので、通報を受けた段階では相当困難な状況も多々ある。
よしんば通報が来たとしても、現場まで何時間もかかることはザラだ。
わたし自身、人が乗っている船を時化のため、救助できずに悔しい思いをしたこともある。
今振り返ると、海難救助現場では「救助できるかどうか」などと考えたことがなかった。
「どうやったら救助できるか」ただそれだけ。
恐怖心も感じて動けなかった記憶もない。
たぶん、「ゾーンに入る」といわれる状態だったんだろう。
夜間、時化の中で機関故障で動けなくなった船に飛び移ったこともある。
一瞬一瞬が「生きている」と実感しながら現場に居たように思う。
今思うと異常な心理状態かもしれないが、そんな状況に充実感を覚えている自分がいた。
まとめ
わたしが21歳の頃、潜水士になるべく海上保安大学校へ研修へ行っていたとき、潜水士の先輩に訓練が辛いと愚痴ったことがあった。
その時の先輩の言葉が今も忘れられない。
死にかけている人を救助するんだ、辛い苦しいのは当たり前
海上保安庁の羽田航空基地にある特殊救難隊にも、こんな言葉がある。
「辛い、苦しい、もう辞めたでは、人の命は救えない」
やはり、人を助けるという行為は、本能レベルで刷り込まれているらしい。
Written by メタル(@Metal_mac)